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甲府地方裁判所 昭和42年(ワ)144号 判決 1971年10月18日

原告 岩間一憲

<ほか三名>

右四名訴訟代理人弁護士 乙黒伸雄

被告 甲府市

右代表者市長 河口親賀

右訴訟代理人弁護士 沖田誠

同 新野慶次郎

主文

一  第一次請求につき、被告は原告岩間一憲に対し金一一七万六三二一円、および内金九七万八四七四円に対し昭和四一年八月二日から、内金一九万七八四七円に対し昭和四二年六月七日から右各完済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

二  第一次請求につき、被告は原告岩間裕記、同岩間涼子、同岩間祐美に対し各金五五万九八二〇円、および各内金五〇万八九二七円に対し昭和四一年八月二日から、内金五万〇八九三円に対し昭和四二年六月七日から右各完済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

三  第二次請求につき、被告は原告岩間一憲に対し、金八八万円、および内金八〇万円に対し昭和四一年八月二日から、内金八万円に対し昭和四二年六月七日から、各完済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

四  第二次請求につき、被告は原告岩間裕記、同岩間涼子、同岩間祐美に対し、各金二二万円、および各内金二〇万円に対し昭和四一年八月二日から、各内金二万円に対し昭和四二年六月七日から、各完済にいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

五  第一次および第二次請求に関する原告らのその余の請求は、これを棄却する。

六  訴訟費用はこれを三分し、その二を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

七  原告岩間一憲において担保として、第一項につき金二〇万円、第三項につき金一六万円を、原告岩間裕記、同岩間涼子、同岩間祐美において、担保として、第二項につきそれぞれ各金一一万円、第四項につきそれぞれ各金四万円を供するときは、この判決は仮りに執行することができる。

事実

第一当事者の求める裁判

一、原告ら

1  被告は、原告岩間一憲に対し金三五一万四二九三円、および内金三〇九万四八一二円に対しては昭和四一年八月二日から、内金四一万九四八一円に対しては訴状送達の翌日から、各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は、原告岩間裕記、同岩間涼子、同岩間祐美に対し、各金一七一万五七九五円、および各内金一五五万九八一四円に対しては昭和四一年八月二日から、各内金一五万五九八一円に対しては訴状送達の翌日から、各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決ならびに仮執行宣言。

二、被告

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決。

第二請求原因

一、岩間志希子(以下、志希子という)は、原告岩間一憲(以下原告一憲という。なお、他の原告についてもその名のみをもって指称する。)の妻、原告裕記、同涼子、同祐美の母である。

被告は山梨県甲府市住吉通一九番一号に甲府市立病院(以下、市立病院という。)を設置し、診療業務を行なうもの、医師時永達巳(以下、時永医師という。)は右病院に産婦人科医長として勤務していたものである。

二、第一次請求―被告の債務不履行による責任

(一)  志希子は、昭和四一年八月一日、市立病院との間に、同女の胎内に存する妊娠三ヶ月の胎児を人工的に体外に排出し、同女を非妊娠状態の健康体とする、いわゆる人工妊娠中絶の手術行為(以下、本件手術という。)の完成を目的とする診療契約を締結した。

(二)  人工妊娠中絶は、現在の医学上、母体に生命の危険を与えることなく容易に行なうことができる手術であるとされており、志希子も昭和三六年一〇月と昭和三九年一〇月との二回右手術を受けたが、いずれも何ら生命に危険を生ずることなく健康体に復しているのであって、本件手術の完成は十分に可能であったというべきである。

(三)  ところで時永医師は、被告の履行補助者として、昭和四一年八月一日午後二時ころ、市立病院において、志希子に対し本件手術を行なうに先立ち、全身麻酔のためラボナールAを注射したところ(以下、本件麻酔という。)、志希子は急性ラボナール中毒に陥り、咽喉および気管支の痙攣収縮を伴う呼吸抑制現象を惹起した結果、気道の閉塞をきたし、よって同日午後四時ころ、同病院において窒息死し(以下、本件死亡事故という。)、これによって本件手術完成義務の履行は、不能に帰したのである。

(四)  よって被告は、右債務不履行により志希子が蒙った損害、および同女の死亡により原告らに生じた財産的・精神的損害を賠償すべき義務がある。

三、第二次的請求―被告の不法行為による責任

(一)  本件死亡事故は、左記1ないし4記載のとおり、時永医師の過失に基づくものである。

1 麻酔前の措置について。

時永医師は、ラボナールAによる麻酔が、呼吸中枢をも麻痺させ、しばしば咽喉の敏感な反射と共に喉頭ないし気管支の痙攣収縮を惹起し、為に気道の閉塞をきたすなど、極めて危険度の高い麻酔法であることを知悉していたのであるから、呼吸抑制がより低度のペントバルビタール等を使用すべきであり、ラボナールAを使用するならば、その使用前にアトロピン等ベラドンナ系の鎮静剤を投与するなどして右諸症状の発生を未然に防ぐ措置を講ずるとともに、右危険な症状が発生することを慮り、そのための応急処置に最も必要である酸素加圧補給用の酸素ボンベおよび吸入器を、直ちに使用できるように予め手術室に備え置くべきであった。しかるに時永医師は、右の措置をいずれもとることなく、漫然と本件麻酔を開始したものである。

2 ラボナールAの注入方法について。

ラボナールA〇・五グラムを二〇ccの溶解液に溶き静脈内注射をする場合は、医師としては最初に四ないし六ccを一〇ないし一五秒の速度で徐々に注入し、約一分間の間隔をおいた上、さらに同速度で右同量を追加注入すべきであり、かつその間、患者の呼吸、脈搏、血圧等身体の変調に万全の注意をしながら徐々に薬液を注入すべき注意義務があった。しかるに時永医師は、本件麻酔をするに際し、右の如き間隔をおくことなく、かつ志希子の身体の変調に注意を尽さずに、一八ccの薬液を二五ないし三〇秒間内に急激に注入したものである。

3 麻酔介助行為を指示する医師の立会いについて。

麻酔を施用してする手術においては、手術を直接行なう医師が麻酔につき終始適切な指示を行なうことは困難であるから、看護婦に対し具体的個別的な指示をすべき医師を別に立合わさせない限り、看護婦の麻酔介助行為は違法というべきである。しかるに本件麻酔において時永医師は、他の医師の立合なくして看護婦に麻酔介助行為を行なわせ、自らは麻酔注射後直ちに中絶手術に着手したため、志希子の全身状態に十分な注意を払うことができなかった過失がある。

4 事後措置について。

時永医師は、志希子が気管支痙攣および筋肉収縮を起し、気道閉塞状態に陥っているのを発見したのであるから、その重篤症状に対し時を失せずに舌鉗子で舌を引張り、サクシン等の筋肉弛緩剤を適宜注射して気管支筋肉収縮を解き気道を確保したうえ、直ちに酸素の補給をなすべきであった。しかるに時永医師は右の処置、とくに酸素補給の処置をとらず、志希子の呼吸を回復することができなかった点に過失がある。

(二)  被告は前記のとおり市立病院を設置し診療業務を行ない、時永医師は産婦人科医長として被告に雇われ、その業務として本件手術を行なうに際し本件死亡事故が発生したのである。よって被告は使用者として志希子の死亡に因る損害を賠償する責任がある。

四、損害

(一)  志希子の逸失利益と原告らの相続

1 同女は昭和一〇年一月三日生れの健康な主婦で、死亡当時満三一歳であったから、その余命年数は四二・三六年、就労可能年数は三二年であった。従って同女は爾後三二年間家事労働もしくは他の労働に従事し、財産的利益を得ることができたわけである。

2 しかして同女の一ヶ月の収入は、女子労働者の平均賃金の最低額を基準とすべきであり、その金額は、同女の死亡時である昭和四一年においては一ヶ月金二万円を下らない(総理府統計局編第一八回日本統計年鑑昭和四二年三九二頁参照)から、同女の一ヶ月の収入は金二万円である。

3 なお、同女の生活費は一日金三〇〇円、一ヶ月(三〇日の計算)金九〇〇〇円を相当とする。従って、同女は一ヶ月一万一〇〇〇円の純収入があった。

4 右純収入の三二年間の総利益を一時に請求するため、年五分の中間利息を控除するホフマン式によると、その係数は二二九・〇一五三五〇三六であるから、これを金一万一〇〇〇円に乗ずると、同女の逸失利益は金二五一万九一六九円となる。

5 志希子の死亡により、原告一憲は、志希子の配偶者として、原告裕記、同涼子、同祐美は、それぞれ志希子の子として、同女が喪失した右得べかりし利益金二五一万九一六九円相当の損害賠償請求権を共同相続したので、各々の相続分は、一憲が三分の一にあたる八三万九七二三円、裕記、涼子、祐美は各九分の二にあたる金五五万九八一四円ずつとなる。

(二)  慰藉料

1 原告一憲は、突然最愛の妻に先立たれ、手許に五歳、四歳、二歳の幼児を残され、将来の不安と空しさとから、茫然自失の状態に陥ったものの、以後は母親代りとなって独力で幼児を育成していかねばならない責任の重大さを自覚し、ようやく立直って来ているが、その精神的打撃は計り知れないものがあり、これを金銭をもって慰藉するには金二〇〇万円が相当である。

2 原告裕記、同涼子、同祐美は、それぞれ両親の愛情の下で何不自由のない生活を送ってきたのであるが、母親の愛情を一番必要とすべき幼児期に突然母親を失い、以後は暖かい母親の手に抱かれることもなく、淋しい少年時代を過さねばならず、成人した暁にも母親の面影を追い求めることは必至であり、その精神的打撃は甚大であって、これを金銭的に慰藉するとすれば、各金一〇〇万円が相当である。

(三)  葬式費用等

原告一憲は、志希子の死亡により、葬式費用として金六万五四〇〇円、通夜等弔問客接待費用として金一八万九六八九円、合計金二五万五〇八九円を支出した。

(四)  弁護士費用

1 原告一憲は原告代理人に本訴の遂行を依頼し、着手金として金一〇万円を支出した外、原告らは、勝訴を条件に各原告が取得すべき損害賠償額の一〇%を成功報酬として支払う約束をした。これを計算すると原告一憲は金三一万九四八一円、他の原告は各金一五万五九八一円となる。

2 ちなみに、医療事故の被害者が事故による損害の賠償を任意に受けられない場合には、究極的には訴の提起を含む法的手続を余儀なくされるところ、医療事故による損害賠償請求訴訟は、最も困難な訴訟の一つとされ、被害者本人が右訴訟の遂行をなすことは殆ど不可能というべきであって、我が民事訴訟法が所謂弁護士強制主義を採っていないとしても、法律専門家である弁護士に委任する以外に正当な補償を得る由がないことは明らかである。従って、損害賠償義務者が正当な理由なく任意に履行をしない場合は、同人は、被害者に弁護士費用の支出または負担という損害の増大が生ずべきことを予見し、または予見すべきものであるから、これらの経済的負担は、前記契約不履行または不法行為と相当因果関係の範囲内にある損害というべきである。

3 これを本件についてみると、原告は志希子の死亡後、直ちに甲府市立病院長を通じて、被告に対し再三に亘り正当な補償を請求したが、被告はこれに応ぜず、また原告が被告の履行補助者である時永医師の過失を主張して甲府簡易裁判所に申立てた損害賠償調停も不調に終ったため、やむなく弁護士に委任して本訴を提起し、その際前記1の支出および負担を余儀なくされたものである。

4 仮りに右の相当因果関係が認められないとしても、被告は、その履行補助者である時永医師の前記過失により、原告に対し損害賠償責任が生じたことを十分に知りまたは知り得べき事情にあったにもかかわらず、前記調停申立を含む原告らの請求を拒絶し、原告をして訴提起をせざるを得ない状態に追込み、弁護士費用として前記の損害を増大させたのであって、これは一個の不法行為を構成するものというべきであるから、被告には右損害増大につき故意または過失による賠償責任がある。

五、よって原告一憲は被告に対し右相続分金八三万九七二三円、慰藉料金二〇〇万円、葬儀費用金二五万五〇八九円、弁護士費用金四一万九四八一円(着手金一〇万円、成功報酬金三一万九四八一円)合計金三五一万四二九三円、および右金額から弁護士費用を控除した金三〇九万四八一二円に対しては志希子死亡の日の翌日である昭和四一年八月二日から、右弁護士費用金四一万九四八一円に対しては訴状送達の日の翌日である昭和四二年六月七日から、各完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求め、原告裕記、同涼子、同祐美は、被告に対し各相続分金五五万九八一四円、各慰藉料金一〇〇万円、各弁護士費用金一五万五九八一円合計各金一七一万五七九五円、および右金額から弁護士費用を控除した各金一五五万九八一四円に対しては前記の昭和四一年八月二日から、右弁護士費用金一五万五九八一円に対しては前記の昭和四二年六月七日から各完済に至るまで前記の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

第三請求原因事実に対する認否

一、請求原因(一)の事実は認める。なお、市立病院の正式名称は総合病院市立甲府病院であって、その概況は左のとおりである。

1  建物 鉄筋コンクリート地上四階地下一階

2  病床 二五〇床(一般二一三床、結核三七床)

3  手術室 四室

4  診療科目 内科、小児科、外科、整形外科、皮膚泌尿器科、産婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、放射線科、臨床検査科

5  勤務職員数 一六七名

二、請求原因二の(一)および(二)の事実は、認める。同二の(三)の事実のうち、死亡原因は否認し、その余の事実は認める。志希子の死因は、急性ラボナール中毒により瞬時に起った、全身痙攣を伴う急性心停止である。

三、請求原因三の(一)の事実は、争う。同三の(二)の前段の事実は認め、後段は否認する。

四、請求原因四の各事実は、全部争う。

第四抗弁

一、時永医師は本件麻酔行為の前後を通じ、左記のとおり注意義務を完全に尽したものであり、本件死亡事故について被告には何らの帰責事由もない。

1  麻酔前の措置について。

(1) 本件手術の対象となったのは志希子にとって六回目の妊娠であるところ、時永医師は同女の子供一人の分娩を取り扱った外、本件手術前三年間に四〇数回の診察をしたが、その間、何らの異常も認めなかった。ところで同医師が本件につき第一回目の診察をしたのは、昭和四一年六月三〇日であり、次いで同年七月六日下腹部の苦痛を訴えられてこれを診察したところ切迫流産の疑いが認められ、さらに同月二〇日中絶の申出を受け、同月二八日に至り本件手術を八月一日に行なうことに決定した。

(2) 時永医師は同年八月一日午後一時ころ外来診察室において、志希子の身体の状態を問診し、手術前二〇分ころ、鎮静剤「アトロピン」(ベラドンナ系薬剤)一筒〇・五ミリグラムを皮下注射し、何ら異常のないことを確認したうえ、排尿を済ませた同女を外来小手術室の手術台に仰臥させ、血圧を測定したところ、最高一二〇、最低七〇程度を示し、脈搏も七〇程度で、いずれも正常値であった。なおその際、ラボナールAの注射にあたり意識消失状況を知る方法として通常行なわれるように、唾液を飲みこませたうえ注射をしない方の腕を上げさせたのであるが、これまた異常が認められなかった。

(3) 時永医師は全身麻酔に伴う舌根沈下、喉頭痙攣等の発生に対処すべく、開口器、舌鉗子、綿棒等を手元に用意していた。なお酸素ボンベは手術室から三七・八メートル、麻酔器は六三・五メートル、酸素吸入器は四二・九メートルの位置に設置されていたが、万一呼吸抑制現象が発生した時は、三ないし四分間内に酸素吸入を行なえば足りるのであるから、これらの器具は時間的に充分間に合う距離に設備されていたものというべきである。

(4) 時永医師は千葉大学非常勤講師の身分を有し、ラボナールAは本件手術までに三五三件以上使用した経験をもち、その間、死亡者を出したことはなく、本件の場合もこれを使用するにつき何らの障碍もなかった。

2  麻酔施用について

(1) 本件は、田辺製薬製造のラボナールA〇・五グラムを、付属の溶解液二〇ccに溶かし、その定められた用法に従い浅川看護婦が志希子の右手腕関節部の脈をとりながら「一、二、三」と数え、それを志希子に復誦させつつ、時永医師自ら同女の左肘関節静脈より徐々に注入したもので、右の勘定が一三ないし一四に至ったとき注射を止めた。右注入量は一四cc(これに含まれるラボナールAは〇・三五ミリグラム)、注入時間は一分三〇秒であって、薬液濃度、注入速度とも、すこぶる適当であったというべきである。

(2) 本件麻酔にあたり、時永医師が別の医師を立ち合わせなかったことは事実であるが、右麻酔は手術前の準備段階であり、時永医師自ら麻酔行為をなしたものであるから、何ら非難さるべき点はない。

3  麻酔後の処置について

(1) 時永医師は、志希子が就眠したのを確認した後、同女の容態を眼下に見ながら、両手をクレゾール消毒液にて洗い、かつ同女の外陰部を消毒した上、ヘガールを膣内に挿入し徐々に拡張している最中に、浅川看護婦から同女の異状を知らされたが、これは、就眠確認後三ないし四分のことである。

なお、同看護婦は、同女が就眠してから時永医師の補助をする形で、ひき続き脈をとり続けていたものである。

(2) 同看護婦から知らされて、すぐ時永医師が同女を見ると、首から胸にかけて痙攣を認めたが、この時には既に脈が計れない状態であったので、直ちにビタカン及びテラプチック(いずれも強心剤)を注射し、心臓の閉鎖的マッサージを行ない、同時に、同所にいた三井見習看護婦に酸素吸入器を、浅川看護婦に麻酔器(閉鎖循還式)を取り寄せさせ、直ちに気管内挿管を試みるとともに、渡辺元治、本間勇郷両医師において心臓に直接ボスミン一筒一ccを注射し、またブドウ糖五%液五〇〇ccに副腎皮質ホルモンを加えて右腕関節静脈に点滴し、その間両手両足をマッサージした後、開胸して心臓に対し直接ノルアドレナリンを注射し、あわせて心臓を直接マッサージしたが、その効果が現われないので、さらに電気によるカウンターショック器を用いて反応を出そうとしたが、同女の容態はますます悪化し、完全な心停止の状態となり、午後四時三〇分ころ、死亡した。

二、右のとおり時永医師は、ラボナール中毒による急性心停止に対する事後処置として、現在の医学水準における最善の方途を尽したのであって、結局、本件死亡事故は不可抗力によるものというべきである。

三、仮りに本件麻酔に関し、時永医師に過失があったとしても、被告は、被用者である時永医師の選任及び診療業務の執行の監督につき相当の注意を為した。

第五抗弁事実に対する認否

抗弁事実のうち一の1の(1)の事実は認めるが、その余の事実は否認する。

第六証拠≪省略≫

理由

一、次の事実は当事者間に争いがない。

被告が市立病院を設置して診療業務を行なっていること。時永医師が同病院に産婦人科医長として勤務していたこと。志希子が原告一憲の妻であり、他の原告三名の母であること。志希子の本件妊娠が六回目であって、時永医師は同女の子供一人の分娩を取り扱ったほか、本件手術前三年間に四〇数回の診察をしたが、別に異状を認めなかったこと。志希子は昭和三六年一〇月と、昭和三九年一〇月の二回人工妊娠中絶を受けていること。本件妊娠につき、時永医師は昭和四一年六月三〇日に第一回の診察をし、同年七月四日に二回目の診察をし、同月二〇日志希子から中絶手術の申出を受け、同月二八日に至り、右手術を八月一日に行なうことを決定したこと。同年八月一日、原告と被告との間で原告主張の如き内容の診療契約を締結したこと。同日午後二時ころ本件病院において、志希子に対し、中絶手術を行なうべく、全身麻酔のためにラボナールAを注射したこと(時永医師自身がしたか、看護婦がしたかは、暫く措く。)。右注射に引続き手術を開始した直後、志希子に異変が生じ、同日午後四時ころ、本件病院において、同女は死亡したこと。

二、第一次請求(債務不履行による責任)についての判断

しかして、志希子と被告との間の前記契約によれば、被告は、志希子の胎内の胎児を人工的に体外に排出し、同女を非妊娠状態の健康体に回復せしめる手術及びこれに伴う診療をなすべき債務があるところ、右手術完了前に同女が死亡したのであるから、被告の右債務は履行不能になったものというべきである。

ところで、右履行不能の結果が生じたことにつき、被告は、その責に帰すべき事由はないと抗弁するので、以下これについて判断する。

(一)  志希子の死因について。

1  時永医師が本件手術に先立つ三年間に志希子を四〇数回診察したが何ら異状を認めなかったことは当事者間に争いがなく、この事実に、≪証拠省略≫を合わせ考えると、志希子は本件手術時、妊娠三ヶ月であることを除き、その身体には何ら異状がなかったものと推定することができる(同女が特異体質であったか否かについては、後記6において検討する)。

2  ≪証拠省略≫を総合すると、ラボナールAを注射してから数分後、志希子は顎および顔が紅潮とチアノーゼの混合した如き色を呈し、脈搏は微弱化し、かつ胸から首にかけて痙攣する等の異状症状を生じたことをまず浅川が発見し、これを直ちに時永医師に告げたことが認められる。

3  ところで、≪証拠省略≫によれば、ラボナールAは次の如き性質を有する薬剤であることが認められる。

ラボナールAは、ラボナール(チオペンタール)をラボナール専用溶解液(アトムリンすなわちジモルホラミン)に溶解し、これを患者の静脈より注入する方法による全身麻酔剤であること。ラボナールはバルビタール酸系の薬剤であって、幾多の長所を有する優秀な麻酔剤である反面、バルビタール酸系薬剤の本来の薬理作用である中枢性呼吸抑制作用を有し、時に呼吸障害を惹起する欠点があったこと(もっともこの呼吸障害は適切な注入速度と注入技術によって大部分は防止され、かつ一過性のものであるとされていた)。そこでこれらの欠点の予防ないし防止対策として、呼吸循環刺戟剤アトムリンを混合することが考えられ、それを混合するように配剤されたのがラボナールAであること。ラボナールAは産婦人科領域では子宮内膜掻爬、人工流産術等短時間の麻酔を必要とする手術に広く利用されていること。調製されたラボナール溶液を、肘静脈より注入する速度や用量は年齢・体重との関係は少なく、個人差が甚しいため麻酔量の一定の基準はないが、通常の成人には全量を平均して、患者に一秒間に約一つの割合で静かに数えさせながら、最初に四ないし六ccを一〇ないし一五秒位の速度で注入し後、三〇秒間位麻酔の程度を観察し、さらに数の応答ができなくなるときの注入量が就眠量であること。ことに使用上の注意として、注入量および注入速度を適正に行なっても、全身麻酔時にみられる舌根沈下による気道の閉塞、および他の原因による気道の閉塞の症状などは完全に防ぐことはできないから、本剤の使用によっても気道は充分に開通しておくことが肝要であること。また副作用として呼吸の抑制、発揚状態、呼吸停止、咽頭痙攣、じんま疹が生ずることがあること。以上の諸点はラボナールAの製造販売元である訴外田辺製薬株式会社の効能書に明記されており、使用時にこの効能書を注意して読めば、直ちに右の各事柄は認識かつ理解し得る状況にあったこと。臨床事例としては、全身麻酔による気管支痙攣の発生頻度は約三〇〇〇件に一件の割合であり、その場合バルビタール剤の急速導入によって発生した事例が圧倒的に多いこと。医学界ではラボナールAの全身麻酔による若干の死亡例も報告されていること。また学界誌上ではラボナールAの静脈注射は麻酔医でも相当緊張して行なう麻酔法であることが警告されていたこと。

4  而して≪証拠省略≫によれば、志希子の屍体解剖にり、左の如き所見を得たことが明らかである。

(1) 膣壁、子宮壁、頸管等の損傷その他外傷は何ら存せずまた死因となりうべき病変、奇形および中毒所見も認められなかったこと。

(2) 顔面は紫藍色のうっ血浮腫状を呈し、眼瞼および眼球結膜には多数の溢血点が認められたこと。

(3) 左右心室に軽度の拡張があり、心外膜下の所々に、母指頭大位までの、多数の溢血点または斑が散在していたこと。

(4) 左肺上葉および右肺上、中、下葉の内側面には、大小多数の溢血点または斑が認められ、かつ両肺全般にわたり、うつ血、水腫が著明であったこと。更に喉頭腔、気管および気管支粘膜にも、多数の溢血点が散在していたこと。

(5) 肝脾および腎のうっ血もかなり著明であったこと。

(6) 脳膜の血管は軽度充血性で、大脳は一般にやや浮腫状を呈していたこと。

(7) 血液は暗赤色流動性であり、チオペンタールと推定される薬物の含有が証明されたこと。

5  以上1ないし4の事実に、≪証拠省略≫を併わせ考えると、志希子の死因は、ラボナールAの副作用である呼吸抑制または呼吸停止による、窒息死と推断することができ、従って志希子は何らかのショックにより瞬時に死に至ったものではないと考えるべきである。

6  ところで、≪証拠省略≫中「志希子は胸線リンパ体質であり、また副腎皮質機能不全が推認され、これらが同女の前記死因に一定の役割を果した」との部分、≪証拠省略≫中「志希子に異変が生じたときは、同女の舌根が沈下していなかった」との部分、≪証拠省略≫中「舌根が沈下せず、直ちに脈搏がふれなかったこと、及び気管内挿管の際無抵抗に挿入できたことから、窒息死ではない。ラボナール使用中であることと、何かの興奮により麻酔が浅く刺戟に過敏な状態であった段階で、頸管拡張という刺戟が加わったと推測されることとから、死因はストレスによる急性心停止である」との部分はいずれも志希子の死因が窒息であるとの結論に背馳するかの如くであるので、以下、検討を加えることにする。

(1) まず胸線リンパ体質について考えると、≪証拠省略≫によれば、その実体に関する医学的解明が未だ完了していない状況にあり、特定の体質としてはこれを否定する説も少くないことが認められ、これが如何なる生理作用、欠陥を包含するか、にわかに断ずることは許されないのみならず、志希子の場合は胸線の重量や体形上にさしたる特徴がないことから、軽度のものと想像され、本件死亡につき具体的にいかなる役割を果たしたかを明らかにする資料はない。

次に副腎皮質機能不全についてみると、前掲各証拠は、「副腎がやや萎縮し皮質リポイドの減少がみられる」という解剖所見のみからする推認の域にとどまり、本件手術前、志希子に副腎皮質機能不全の症状が、現われていたと認むべき事情が存しないことからしても、同女が副腎皮質機能不全症とは断定できず、従って、本件死亡に対する関連性を肯定することはできないという外はない。

(2) 志希子の舌根が沈下していなかったという浅川看護婦の認識については、同看護婦が志希子の異変を発見したのが如何なる時点であるのか必ずしも明確でないうえ(後記(三)で認定する本件麻酔の経過に照らすと、同看護婦は、志希子の異常がかなり顕著になってから始めて気付いたことが窺われる。)、同看護婦が終始志希子の舌根について注意しつづけたかどうかは極めて疑問であって、右証言のみでは志希子の舌根が沈下しなかったとの心証は得難いといわなければならない。

(3) 証人時永の前記証言部分については、後記(三)において述べるとおり、全く脈搏がなかったとの証明はなく、また気管内挿管は相当時間の経過後になされたと認められるので、その時点より前に気道閉塞が生じなかったとは、にわかに断定できない。而して志希子はかつて二度の人工妊娠中絶を経験していることもあり、本件麻酔前、同女がとくに興奮していたことを窺わせる証拠は何もないので、前記の如く強力なラボナールAの麻酔効果に徴すれば、同女は直ちに深麻酔に入ったと認めるのが相当であること、ラボナールAの普及度に照らすと、前二回の人工妊娠中絶においても、ラボナールAによる麻酔法が使われたものと推認されるが、いずれの際も薬物ショックが生じたと認むべき証拠は存しないこと、同女の頸管に何らの損傷もなかったこと、等を考慮すると、本件死亡事故の原因を単なる急性心停止とする結論は、あくまで、仮定的な前提事実に基づく推測にすぎないものといわざるを得ない。

そして、ラボナールA中毒による呼吸抑制は、常に舌根沈下ないし気道閉塞を伴うものではないこと、及び一定の結果の発生につき他の因子の存在も合わせ考えられることは、因果関係を認める妨げとはならぬことに思いを至せば、以上本項冒頭掲記の各証拠は、いずれも前記5の認定に反するものではないというべきであり、外にこれを左右するに足る証拠はない。

(二)  麻酔行為に関する注意義務について

前記一、記載の当事者間に争いのない事実、右二(一)の認定事実、ならびに≪証拠省略≫を総合して考察すると、ラボナールAが有効な麻酔薬である反面、極めて激しい副作用を伴うものであることに鑑み、これを使用して麻酔行為を行なう医師は、少くとも左に述べる注意義務を要求されるものというべきである。

1  腎、肝臓、心臓に著明な欠陥のある者に対してはラボナールAの使用を避けるべきことは当然として、然らざる者に対しても、副交感神経を抑制するため、前投薬として、麻酔の約一時間前に、アトロピン、スコボラミン等、ペラドンナ系薬剤を投与すること(但しこれらの前投与によって、不慮の事故が全て回避できるものでないことは勿論である)。

2  一〇ないし一五分間の深麻酔を得るためのラボナールAの注入法は、一秒間に約一つの割合で患者に数を数えさせながら、最初に四ないし六ccを一〇ないし一五秒位の速度で注入し、しかる後、三〇秒間麻酔の程度を観察し、数の応答ができなくなる時を就眠量とし、なお手術に先立ち、さらに同速度で四ないし六ccを追加注入すべく、以上は、麻酔量が個人により異なることを考慮し、終始、患者の状態に十分な注意を払いながら、慎重に行なうべきこと。ことにラボナールAの麻酔における異状は大部分が注入の速度および量に基因していることに思いを致し、とくに注意義務を尽すべきことが要求されていること。

3  ラボナールAの注射は薬理の特性上、注入速度および注入量を適正に行なっても、副作用を生ずることを予測し、とくに麻酔合併症の約八割をも占める呼吸系合併症状の発生に備えて、気道確保及び酸素加圧補給を直ちになしうるよう、必要な器具類を事前に手術室に整えておくことが要求されていたこと。

4  注入の前後はもちろん、手術終了に至るまで、常に細心の注意をもって患者の状態を観察し、容態に即応して適当な措置を構じうる人的物的体制を整えていること。仮に一人の医師が麻酔管理と手術の両者を行なうような場合は、手術中右医師は患部に注視せざるを得ないのであるから、熟練した看護婦をして麻酔介助に専念させる外、他の医師が直ちに応援にかけつけうる様な連絡方法を構じておく義務があったこと。

(三)  本件麻酔の経過

≪証拠省略≫を総合すると、

1  昭和四一年八月一日午後一時ころ、志希子はその母桐山トキに付添われて市立病院へ来院し、二階産婦人科室において、浅川看護婦の問診及び血圧の測定を受けた後、午後一時半ころ、同科外来小手術室において、本件手術が開始されたこと。

2  麻酔合併症に備えて右小手術室に準備されていたのは、強心剤の外は、舌鉗子、開口器、人工呼吸用空気管(アイカレスキューチューブ)のみであり、蘇生器は、同院二階新生児室西側に隣接する分娩室西北隅(同所は小手術室診療台から約五三メートル余離れ、小手術室からの往復所要時間はおおよそ五六秒である。)に、麻酔器(閉鎖循環式)は、同階快復室西北隅(同所は小手術室診療台から約六五メートル余離れ、往復所要時間はおおよそ一分二〇秒である。)に、それぞれ設置されていたこと。なお本件病院には、当時麻酔器は一台しか設置されていなかったこと。

3  志希子に対する本件手術は、時永医師、浅川看護婦、三井見習看護婦の三名の手で全て行なわれるべく予定されており、右同科外来室には小手術室も含めて、右三名の者がいたのみであって、他の医師、看護婦はおらず、かつ、他の医師が麻酔の管理にあたるとか、或いは、麻酔に関する緊急事態に備えて、待機する等の体制は採られていなかったこと。

4  志希子に対しラボナールAを使用することが不適当とされる特別の事情は事前に認められなかったこと。

5  時永医師は、浅川看護婦が前記1の問診・血圧測定などの事前の処置をしたのを確認したのち、直ちに診療台に仰臥している志希子に対しラボナールAの静脈注射を始め、浅川看護婦に志希子の脈搏を調べさせながら、ラボナールA溶解液二〇ccのうち約一四ccを、途中で中断することなく、約一分三〇秒かかって注入し、志希子の意識が完全に消失したことを見届け、注入をやめたこと。

6  右注入直後、時永医師は診療台の前方(志希子の足先の前)の椅子(この椅子に坐ると、志希子の上半身と下半身を隔てるカーテンおよび、診療台の傾斜により、志希子の上半身は見えなくなる。)に移り、浅川看護婦は志希子の頭後方から、志希子の左手と時永医師との中間あたりに移動したこと。そして同看護婦の介助の下に、時永医師は膣鏡をかけ、マーゾニン(消毒液)で拭き、ミゾー氏双鉤鉗子をかけ、子宮ゾンデを挿入してから、ヘガール式頸管拡張器を一番から順次一〇番まで挿入したとき、たまたま志希子の顔の方をふりかえった浅川看護婦が、前記(一)2記載の変化に気付き、これに引続いて、時永医師も、異変を発見したこと。これはラボナールA注入後、約二分ないし三分経過した時のことであること。

7  時永医師は右異変が麻酔事故によるものと直感的に判断し、直ちに三井見習看護婦に酸素をとりにいくよう指示すると同時に、自ら志希子の脈搏を調べたところ、きわめて微弱であったこと。同医師および浅川看護婦は、直ちにビタカン及びテラブチク(強心剤・呼吸促進剤)を志希子に注射し、次いで同女に対し閉塞式心マッサージを開始し、一、二度口移しの人口呼吸をした外は、右マッサージを続けたこと。

8  三井見習看護婦は時永医師の指示を受け、直ちに前記新生児室へ蘇生器(酸素ボンベ)をとりにいき、約二ないし三分かかって右小手術室へ戻ったが、右ボンベは新生児用であって使用できなかったため、替って浅川看護婦が前記麻酔器をとりにいき、やはり約二ないし三分くらい要して小手術室へ戻ったこと。この間、三井見習看護婦は時永医師の指示により、外科医長である本間勇郷医師の応援を求めるため、同階の大手術室へ走り、同医師は浅川看護婦の到着直後小手術室に到着したこと。

9  本間医師の到着前、時永医師は、麻酔器を使用すべく志希子の気管内へ挿管していたが、本間医師が来てからは麻酔器の操作に専念し、本間医師が心臓マッサージを担当し、更に、ブドー糖ないしリンゲル及び副賢皮質ホルモン等強心剤の点滴を行なったこと。また本間医師到着後一〇分以内に渡辺元治医師が到着し、時永医師と交代して酸素吸入を行なったが、効果があらわれないため、本間、渡辺の両医師が志希子の胸を切開し、ノルアドレナリンを直接心臓に注射すると共に、マッサージを施こし、最後的には電気によるカウンターショックを二回直接に心臓に与えたこと。

10  以上の各事実が認められる。右認定事実中5に反する証人時永、同浅川の「前投薬としてアトロピンを注射した」旨の各証言は、前記甲第五号証、甲第七号証、甲第九号証にその旨の記載がないこと、及び証人三井の証言に照らして措信しがたく、右認定事実中6に反する証人桐山トキの「志希子がのどをしめつけられるような声を発した」旨の証言は、同証人の年齢、及び証人三井、同浅川の各証言を考慮すると信用できず、また右認定事実9に反する証人時永の「サクシンを注射した」旨の証言は、前述アトロビンの注射同様これを裏付ける資料がなく信用できない。また、右認定事実8、9に反するかにみえる証人桐山トキ、同桐山都義、同桐山薫の各証言及び原告本人一憲の尋問結果、中の「酸素吸入器を産婦人科の前の廊下へ運んで来たが、器具があわないので結局使用しなかった」との点は、これらの供述が一致して「業者風の男二、三人で運搬した」としていることからして右の器械が麻酔器であると断定しがたく、前記認定に矛盾するものではない。右のほかに、前記1ないし9の認定を左右するに足る証拠は存しない。

(四)  時永医師の過失

以上(一)ないし(三)の認定事実を総合すると、ラボナールAの静脈注射による全身麻酔は、往々にして呼吸抑制、呼吸停止、または気道閉塞などの直接かつ急激に患者の生命を危殆に瀕せしめるような副作用を惹起する虞れがあり、その故に専門の麻酔医でも相当緊張して行なう麻酔の方法であって、このことはこれを施用する医師にとって医学上の常識として一般に知られていたのである。それ故にこそそのような危険なかつ瞬時を争う副作用を絶対に未然に防止するよう慎重かつ厳格な措置と、万が一の発生に備えてその早期の発見の努力と、それに対応する敏速適切な措置とが、前記認定のような具体的内容をもって医師の業務上の注意義務として課せられているというべきである。しかるに本件手術に関し、時永医師は第一に、アトロピン等の前投薬を投与するなどの慎重な方法を講じていないこと(同医師がかかる措置を必要であったと認識していたことは、同医師は事故直後の供述等では右前投薬のことはなんら触れていなかったのに、証人としての証言においてはその信用性は極めて薄いにかかわらず、あえて前投薬を投薬した旨を強弁するに至ったその供述の変化自体に徴し認められるところである)。第二に気道閉塞、呼吸抑制、呼吸停止などの症状を呈した場合の、緊急必須の治療器具である(このことは時永医師が浅川看護婦から志希子の異変を知らされるや、瞬間的に酸素吸入器を取ってくることを命じていることに徴し、その器具の重要度とその認識の深さを知ることができる)麻酔器等加圧酸素吸入器の設置のされてない、しかも患者に異変が生じた場合、その施用は寸刻を争うものであるのに、これらの器具は同じ二階とはいえ相当離れた場所に置かれていたのであり、なおその上に異変の場合これらを取りに行く人手を欠いていたところの、物的にも人的にも設備の不充分な外来小手術室において、安易に本件麻酔行為を開始していること(本件手術の開始前に、時永医師は自らまたは浅川看護婦などに命じて、病院内の蘇生器や麻酔器等の酸素吸入装置の設置状況、その機能、操作可能の状態の有無につき、予め点検した旨の事実を認める証拠はない)。第三に浅川以外に熟練した看護婦を介助させることをしなかったため、ラボナールAの注入後の志希子の麻酔状態に対する観察が充分ではなく、そのためその異変を示す徴候の発見が遅きに失したと推測されること(鑑定書にみられる内部諸器官のうっ血点や斑は、それにいたる内部の激変が必ずや外部に現われていたことを推測せしめるものであり、浅川が異変に気づいたときの志希子の顔色はすでに紅潮とチアノーゼの混合した色を呈していたということは、普通の顔色からそれに至る途中の顔色の変化については観察をしていなかったことの証左である。したがって注入後継続的専属的に志希子の状態を観察していたならば、異変の徴候が初まると同時に、これを把握することができたということができるのである。)第四に右の第二のような不備のため、志希子の異変を発見した後も、一瞬を争って施用すれば効果をあげることができたと思われる酸素加圧補給について、浅川および三井の不手際もあって、少くとも約五分ないし六分の時間を失し、時永医師の意図どおりには施用されず、その効果をあげることはできず、そのことが本件死亡の一要素をなしていることの諸点が認められる。そうだとすれば時永医師の本件麻酔行為は、残念なことではあるが医療行為のマンネリズム化に惰し、粗漏杜撰な点があったとのそしりは免れ難いものがあるというべく、時永医師が右の諸点に十分に慎重な配慮を尽していたならば、志希子の本件死亡を回避し得る可能性が残されていたと解する余地がある。したがって志希子の死亡により前記契約上の履行が不能に帰したことにつき、被告の責に帰すべき事由がなかったものと認めることはできない。ことに病院は科学的かつ適切な診療を行なうことを目的とし、それに必要な人的物的設備も法定されているのであるから(医療法二一条、同法施行規則一九ないし二一条)、一般の医院または診療所よりもさらに高度の医療を要求されて然るべき立場にあるといわなければならない。この場合予算等の不足を理由として人的物的設備の不充分さを自ら肯定し、その不充分なるが故に万全の医療行為ができない旨を高言したり、他の病院において施用されていないことをもって設備の水準を弁疎したりすることは、本末転倒の議論というべく、それらの事情があるにせよ、そのために医師に全幅の信頼をよせて手術を委ねた患者の生命が損なわれてもよいということには、絶対にならないことを知るべきである。この点につき本件死亡を不可抗力であるとする≪証拠省略≫は、以上の判断に照らしいずれも採用の限りではなく、他に帰責事由がなかったことを認めるに足りる証拠はない。

(五)  被告の賠償責任

以上(一)ないし(四)において認定したところからするならば、本件病院を設置し、診療医療業務を行なう被告は、前記契約上の債務の履行にあたり、その履行補助者である時永医師の過失すなわち自己の責に帰すべき事由により、志希子を死亡させ、右履行を不能にしたのであるから、これによって生じた損害を賠償する義務があるといわなければならない。

(六)  そこで志希子の死亡による損害額について判断する。

1  逸失利益

(1) ≪証拠省略≫によれば、志希子は死亡当時三一歳八ヶ月(昭和一〇年一月三日生)であり、死亡まで健康な、原告四名を含むその家族の家事に従事する主婦であったことが認められる。

(2) 公刊物である運輸省自動車局保障課作成の「政府の自動車損害賠償保障事業損害査定基準」によれば三一歳の女性の就労可能年数は三二年であることが認められる。

(3) 志希子は主婦として家事労働に従事していたものであるが、これを金銭に見積ると、少くとも当時の全女子労働者の平均賃金に相当する価値を有するものと評価することは社会通念上合理的理由があると解されるところ、≪証拠省略≫によれば、右賃金は一ヶ月金二万円と算定するのを相当とする。

(4) なお志希子の一ヶ月の生活費はその収入の二分の一と解するのを相当とするから、これを金一万円と算定する。したがって志希子は三二年間少くとも一ヶ月金一万円の純収益があったものと解することができる。

(5) これを一時に請求しているので、年五分の中間利息を控除すべくホフマン式計算によると、三二年間三八四ヶ月に対応する係数は二二九・〇一五三五〇三六であるから、右金一万円に右係数を乗ずると、志希子の逸失利益は金二二九万〇一五四円であると認められる。

(6) ≪証拠省略≫によれば、原告一憲は夫、他の三名の原告は子であり、右四名が志希子の相続人であることが認められるので、法定相続分に従い原告一憲は右逸失利益の三の一に相当する金七六万三三八五円を、他の三名の原告は九分の二に相当する金五〇万八九二七円の請求権を取得したことになる。

2  葬儀費用等

≪証拠省略≫によれば、原告一憲は志希子の死亡による葬儀費用等につき金二一万五〇八九円を支出したことが認められる(香典返しと解される金四万円は右費用には含まれない)。右は志希子の死亡と相当な因果関係のある損害と認むべきである。この費用請求権は原告一憲の支出にかかるものであるから、右1の金額にこれを加算すると、原告一憲の損害額は金九七万八四七四円となる。

3  弁護士費用

≪証拠省略≫によると、原告らは、本件訴訟の遂行を弁護士乙黒伸雄に委任し、着手金として金一〇万円を原告一憲が支出し、原告四名は勝訴の場合には勝訴額の一割を右弁護士に支払う旨契約したことが認められ、主張整理及び証拠収集の困難性など、本件訴訟の遂行状況に照らすと右はいずれも、本件死亡と相当な因果関係があり、右費用は被告において賠償すべき損害と解するのが相当である。したがって被告は原告一憲に対し、金九七万八四七四円の一割の金九万七八四七円を、他の三名の原告に対し各金五〇万八九二七円の一割の金五万〇八九三円を支払う義務がある。

4  原告らの慰藉料

原告らは志希子の死亡による各人独自の慰藉料を、右契約による債務の履行不能と因果関係のある損害であると主張する。しかしながら契約上の債務不履行に基づく損害賠償請求権は、契約当事者たる債権者において成立するのを原則とし、第三者に生じた損害は、特別の事情に因り生じた旨の立証がない限り、右損害賠償の範囲には含まれないものというべく、この意味において、民法七一一条の規定は、債務不履行に基づく損害賠償について類推適用または準用されないと解するのを相当とする。

そうだとすれば、右特別の事情について主張立証のない本件においては、原告らが請求する右慰藉料は、第一次請求による損害には含まれないものといわなければならない。したがってこの点の原告らの請求は理由がない。

5  右1ないし4の各認定事実から、原告一憲の損害額は金九七万八四七四円と金一〇万円と金九万七八四七円の合計金一一七万六三二一円、他の三名の原告らの損害額は、各金五〇万八九二七円と各金五万〇八九三円の合計金五五万九八二〇円であることが認められる。

(七)  結論

以上のとおりであるので、第一次請求につき被告は原告一憲に対し金一一七万六三二一円および内金九七万八四七四円(弁護士費用を除く分)につき志希子死亡の日の翌日である昭和四一年八月二日から、内金一九万七八四七円につき、本件記録により被告に対する本件訴状送達の翌日であることが認められる昭和四二年六月七日から、右完済にいたるまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を、また他の三名の原告に対し各金五五万九八二〇円および内金五〇万八九二七円(前同趣旨)につき前記の昭和四一年八月二日から、内金五万〇八九三円につき前記の昭和四二年六月七日から、右各完済にいたるまで前記の年五分の割合による遅延損害金を、それぞれ支払うべき義務があるというべきである。

三、第二次請求(不法行為による責任)についての判断

(一)  原告らは第二次請求として被告の不法行為による損害賠償を請求している。原告らの慰藉料を除くその余の請求については、第一次請求においてすでに判断したところであるので、かさねて判断はしないが、慰藉料の請求について検討する。

(二)  第一次請求に対する判断において認定した各事実によれば、時永医師の志希子に対する本件麻酔行為については、その診療業務上の注意義務に違背する事実が存することが認められるところから、時永医師には本件手術につき過失があったものというべく、志希子の死亡は右過失に基因することが明らかであるので、被告が時永医師の選任・監督につき相当な注意をしたと認めるに足りる証拠のない本件においては、被告は使用者としての責任を免れず、結局被告は原告らの精神的な損害についてこれを慰藉すべき義務があるといわなければならない。

(三)  原告らの慰藉料

≪証拠省略≫及び本件において認定した諸般の事情を考慮すると、志希子を喪った原告らの精神的打撃は甚大なものと察するに余りあるが、反面、時永医師ほか病院従業員らが志希子の命をとりとめるべく必死の努力をしたことも明らかであり、結局、原告らの精神的苦痛を金銭をもって慰藉するには、原告一憲につき金八〇万円、他の三名の原告につき各金二〇万円が相当であると認める。

(四)  なお原告らは弁護士乙黒伸雄に対して勝訴の場合には、勝訴額の一割を支払う旨の契約をしていることはすでに認定したとおりであるから、被告は原告一憲に対し金八万円、他の三名の原告に対し各金二万円の弁護士費用を損害として賠償する義務がある。

(五)  よって被告は原告一憲に対して金八八万円、および二の(七)と同様に内金八〇万円に対し昭和四一年八月二日から、内金八万円に対し昭和四二年六月七日から右各完済にいたるまで年五分の割合による遅延損害金を、他の三名の原告に対し各金二二万円、および内金二〇万円に対し昭和四一年八月二日から、内金二万円に対し昭和四二年六月七日から、右各完済にいたるまで前記の年五分の割合による遅延損害金を、それぞれ支払う義務があるというべきである。

四、よって、原告らの第一次および第二次各請求は右認定の限度において理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条を各適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石丸俊彦 裁判官 春日民雄 雛形要松)

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